7月例会の報告(参加人数 15名)
今回は愛媛大学の鈴木静さんから
「国立療養所の『施設の社会化』への取組み-群馬県・栗生楽泉園を例に」
というタイトルで発表をしていただきました。
「くりう らくせんえん」は、ハンセン病療養所です。
今、静さん達が取り組んでいるのは、この療養所の将来構想づくりです。
下記は、静さんのレジュメを元にまとめています。
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はじめに
・ はじめてハンセン病療養所に行った際
・ 栗生楽泉園の取組みに関わるきっかけ
・ 国立ハンセン病療養所の将来を考えることは、高齢者・障害のある人の生 活施設の方向性を示す
静さんの世代は、いわゆる「空白の時代」。ハンセン病についての知識もほとんどなく、学習する機会もありませんでした。ただおぼろげに覚えているのは、 テレビで見たハンセン病の人たち。犯罪者でもないのに、仮名を使い、顔にはモザイクがかかっている。それはどうしてなんだろう?という不思議な思いを持ったことが印象にあるそうです。でも実際に、療養所でお会いした方たちは、普通
のおじいちゃん・おばあちゃん。どうしてこのような隔離収容政策が起ったのか、という疑問を残します。
1 ハンセン病政策とは?―過去のこと、現在のおかれている状況
(1)ハンセン病とはどういう病気か?
ハンセン病はノルウェーの医師が発見した「らい菌」という最近による感染症です。感染しても発症はまれ。栄養状態、衛生状態が悪く、病気に対する防衛力が低下したときに発症します。体の末梢神経が麻痺したり、皮膚がただれた様な状態になるのが特徴で、かつては「らい病」と呼ばれ、病気が進むと容姿や手足が変形することから患者は差別の対象となり、不治の病として忌み嫌われていました。1943年に、アメリカで開発された抗生剤「プロミン」により容易になる病気となります。以後、薬の開発は進み、現在では早期に治療すれば、身体に障害が残ることはありません。元患者さんに残る身体の変形は、後遺症にすぎません。また、現在の日本では感染・発症の要因は少なく、新しい患者が発生する可能性はきわめて低いといえます。
(2)隔離収容政策を支えた法制度
・ 1907年「ライ予防ニ関スル件」
・ 1916年「癩予防法」
・ 日本国憲法のもと1953年「らい予防法」によって隔離収容政策が1996年まで継続された。
※らい予防法の廃止に関する法律
(3)隔離収容政策の中身(ここでは「らい予防法」のもとでも)
@療養所とは名ばかりで、療養する場所ではなかった
A社会の反応
そもそも「隔離収容政策」をとったのは、「その病気になると治らないから・・・」という理由があげられる。亡くなるまで面倒を見る、ということを前提に、
かかった人たちを根絶やしにするという考えがあったのだろう。
園内の衣食住環境は劣悪。患者の結婚は認められず、認められたとしても断種・堕胎を条件とし、万が一子供が生まれた場合はなかったことにされる。園内通貨で園内のみでの買い物。患者専用の監禁施設も園内に作られていた。それはいわゆる刑務所のような牢獄で、施設にとって都合の悪い患者を「不良患者」として所長の一言でそこに入ることが決まる。また、ここ栗生楽泉園には、「重監
房」というものが存在し、他の療養所では「問題を起こせば、草津に送るぞ・・・」 という風に言われていた。実際にこの重官房で約20名近くが亡くなっているらし
い。隔離が決まった者は、戸籍を抹消された。
(4)1997年らい予防法が廃止されたあとも・・・・
・平均年齢の高さ74歳
・故郷に帰りたい気持ち―親族に迷惑をかける、知らない土地には移りたくない
・戸籍の抹消・・・生まれてなかったことにされている事実
・また、ハンセン病を見れる医師が少ないという現実から、療養所で暮らすことを選択する人たちも多い。
2 ハンセン病国賠訴訟熊本判決の意義
(1) 一人の元患者さんの声から始まった。
「国は俺たちに何も謝っていない」
最初原告13人からはじまった。→東日本訴訟、瀬戸内訴訟追加
一人一億円の損害賠償請求。平均年齢が70歳を超えていることもあり、
「3年で判決を勝とう」という決意。弁護団には元水俣病裁判に関わった人達が参加しいて、裁判所に療養所を見に来させるという行動をとらせた。
(2) 裁判結果とその後の動き
2001年5月 熊本地裁判決―原告勝訴
小泉首相の控訴断念(判決確定)
原告団と弁護団、厚生労働省での交渉―実質的な成果を求めて
7月23日 基本合意(ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会と坂口厚労大臣)
★ 4つの柱
@ 謝罪、名誉回復
A 社会復帰支援
B 終生在園保障 →療養所の統廃合の噂がある
C 原因究明、再発防止
→ハンセン病政策検証会議(テレビ朝日ニュースステーションより)
↓
検証のために元患者のカルテが必要。だが厚生省は元患者のカルテ公開を「情報公開法」を理由に公開を認めない。
そのため作業が始められない。
↓
厚労省の最終結論「資料の背表紙しか見せない。」そのために、真相究明ができず
↓
厚労省はなかったことにしようとしているのではないか?
⇒厚労省、療養所側に在園保障のための具体的構想を提起する動きなし
今までの水準でOKと思っている。約束をするが、稼働していない現実
3 栗生楽泉園での取組みと現在
(1)在園保障の考え方
@ 希望する現在地での終生の生活
A 現在の条件をさらに発展させ、「社会の中で生活するのと遜色ない水準」を確保し、
広くハンセン病患者、家族に安心を保障する
(2)将来構想の基本的な考え方―施設を社会に
1) 療養所を社会に
人の行き来、自分も外に出て行ける。
「入園者も街の人も一緒にお風呂に入れるように…」
2) 栗生楽泉園をモデルに
3つの意味で全国的なモデルになりうる
@全国国立13園のモデルとして
これまでの予備調査から、ハンセン病療養所13園は、他の施設と異なる特色をもつ。
⇒具体化の案(検討中、例えば・・・)
・ 療養所の医療、リハビリ、ケア体制の整備
・ ハンセン病、難病、老年医学等の研究施設
→ハンセン病歴史資料館
・ グループホーム、ケアつきのホームの整備(和室2間と台所・トイレ、納戸つき)
・ バブル期と異なるリゾート、別荘、住宅の整備
→温泉療法 療養型の楽しい施設
・ 障害のある人も学べるフォルケ・ホイスコーレ
→サマースクールのように短期間の参加も可能にし、全国的にも人が呼べるように。
A高齢者及び障害のある人の医療・福祉・居住のモデルとして
B自己決定と参加による将来構想とまちづくり
(3)楽泉園入園者自治会と草津町の動き
国民医療研究所として@徹底的に地元の話を聞くA国際的な視点を持って
02年10月26日 自治会から、国民医療研究所へ将来構想の素案委託
・入園者自らが療養所の将来構想を起草したい
それぞれの思い ・「なにを今さら」
・「せめて」療養所で静かに暮らし続けたい
・地域との関わりへの希望
・統廃合の危惧
12月5日 「栗生楽泉園の将来を創る会」(シンポジウム)
03年1月16日「栗生楽泉園の将来を創る会」世話人会中心に発足、以降月1回開催
→現在では、「栗生楽泉園と町の明日を作る会」に名前を変更
3月17―19日 日本居住福祉学会第6回研究集会
5月末 草津町周辺社会資源調査
6月中旬〜 栗生楽泉園入園者調査―実施済み(集計中)
※愛媛大学池田さん聞取り参加
草津町全世帯調査―実施中
栗生楽泉園全職員調査―(近日実施予定)
9月中旬 将来構想中間報告のための住民大会(予定)
10月末 国民医療研究所から自治会へ将来構想報告書提出(予定)
4 将来構想づくりの多重性、多面的展開―自己決定と参加を支える
(1)入園者自治会―国民医療研究所楽泉園調査団
⇒国際的動向、日本の制度の問題点、各種調査の実施を行う。
※コンサルタント会社のように、国民医療研究所だけで報告書を作らない
(2)草津町全体で将来構想作りを位置づける。
(目的)「国立」の運営上の閉鎖性を克服する(国の在園保障約束を反故にするものではない)
※「療養所を社会に!」人の行き来、自分も自由に外に出て行けること
(手続きの重視)
@「栗生楽泉園とまちの明日を創る会」の設立 ― 町長が会長、役場が事務局
当初の戸惑い・消極的な態度 → 半年で大きな変化
A入園者の聞取りの重視
・ これまでの経緯からくる「あきらめ」と本音
B住民全世帯調査
・ これまで住民の趨勢―栗生病療養所は知らない・行ったことがない所
看護師、看護助手として草津町近隣住民の重要な雇用の場(とりわけ若い年代)
C職員調査
D草津町地域資源調査(実施済み)
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文責 坂本 有希